式内 比沼麻奈為神社(元伊勢)

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概 要
社 号 式内 比沼麻奈為神社
式内社 丹後国丹波郡 比沼麻奈爲神社
読 み:古 ヒチノマナヰ、現 ひぬまない
所在地 京都府京丹後市峰山町久次(ひさつぎ)字宮ノ谷661
旧地名 丹後国丹波郡
御祭神
豊受大神(とようけのおおかみ)、瓊瓊杵尊(ににぎ のみこと)、天兒屋根命(あめのこやね のみこと)、天太玉命(あめのふとだま のみこと)
例祭日 9月15日 例祭 10月10日 秋季例大祭
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』(式内社)
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹後国(タンゴ):65座(大7座・小58座)
丹波郡(タンバ):9座(大2座・小7座)
近代社格制度 旧村社
創建 年代不詳(神代)
本殿様式 神明造
境内摂社(祭神)
稲荷神社・秋葉神社・祖霊社
一口メモ
伊勢外宮の本地とされる古社である。
天照大神が吉佐宮へ御遷幸の崇神天皇39年創祀と伝えられ、雄略天皇22年、天照大神の御神託により伊勢度会宮に遷座されたとき、御分靈を奉祀したといわれる。
国道312号を豊岡方面からだと比治山峠のトンネルを越えると峰山町ニ筒で案内板があるので左折し、なつかしさのある木造建築のまま残されている久次集落の公民館前に社号標がある。右に少し入ると突き当たりに広大な社域と伊勢神宮と同じ神明大鳥居が目に入った。社殿は伊勢神宮と同じ神明づくり。日曜日なのに私一人だけ。境内をうろうろしていたからだろうが、お髭の神官の方が出てこられたが、お話する時間がないのが残念だった。
「比治」か「比沼」か?!
比沼麻奈為神社を現代読みで「ひぬままない」と読ませている。沼は万葉仮名で「ヌ」「ノ」の接続語を意味するかなのひとつであり、但馬国にも古くは黄沼前と書いて「きのさき、今の城崎」、狭沼郷は「さの・今の佐野」と読む。しかし、この場合は、延喜式神名帳には、比沼麻奈為神社の振り仮名を「ヒチノマナヰ」としている。したがって、伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』記載時に、「比治」を「比沼」と書き間違えたか、延喜式記載時かはわからないが、それはともかくとして、「比治」を「比沼」と書き違えたのではないかと思う。
1.久次岳の南に旧熊野郡と旧丹波郡(中郡)の境となる比治山峠がある。この神社が元々あったのは比治山山頂。比沼麻奈為神社をヒノマナイではなく「ヒチノマナヰ」としている。
2.『国司文書・但馬故事記』が出石郡・二方郡を除いて、天照国照櫛玉饒速日天火明命が田庭(丹波)の真名井原に降り、谿間(但馬)に入り、比地の真名井が各郡を開く際に記されている。比地(比治)とは、霊異地のことで、霊異とは、人知でははかりしれない不思議なことをいう。
第二巻・朝来郡故事紀、第三巻・養父郡〃、第四巻・城崎郡〃が最も詳しく書かれているのでまとめると、
天照国照櫛玉饒速日天火明命 は、天照大神 の勅(皇の命令書)を受けて、外祖、高皇産霊神 より、十種の瑞宝(澳津鏡一、辺津鏡一、八握剣一、生玉一、死去玉一、道反玉一、足玉一、蛇比禮一、蜂比禮一、品物比禮一)を授かり、そして、妃の天道姫命と与(とも)に、
坂戸 天物部命・二田 天物部命・両槻 天物部命・ 真名井天物部命(朝来郡故事紀のみ記載)・嶋戸天物部命・天磐船命・天揖取部命・天熊人命・蒼稲魂命 を率いて、天磐船 に乗り、高天原より田庭(丹波)の真名井ヶ原に降り、
豊受姫(とようけひめ)命に従い、五穀蚕桑の種子を穫り、
射狭那子嶽 に就 き、真名井を掘り、稲の水種や麦・豆・黍 ・粟 の陸種を作るべく、これを国の長田・狭田(大小の田)に蒔く。昼夜生井・栄井の水を潅 ぐ。すなわち、その秋には瑞穂の稲が野一帯に所狭し。
豊受姫命はこれを見て大いに歓んで曰したまわく、「阿那爾愛志(あなに愛やし)。命これを田庭に植えよ」と。
こののち、豊受姫命は、天熊人命をして、天火明命に従って、田作りの事業の補佐けさせ、のちに高天原に上り給う。
故に此処を田庭と云う。丹波の名は、ここに始まる。
「(丹哥府志) 奈具神社 延喜式」 宮津市由良
奈具神社今奈具大明神と称す、風土記に云比沼山の頂に井あり眞井といふ今既に沼となる此井に天女八人天降り水を浴す是時に和奈佐といふ老夫婦あり窃に一人の羽衣をかくす、其羽衣あるものは皆飛去りて天に登り獨り羽衣を失ふものは天に登る事能はす於是老夫天女に謂て曰我に子なし汝よく我子になれといふ、天女の曰妾獨り羽衣を失ひけれほ今天に登る事能はす當に君が言に従ふへし請ふまつ羽衣を還し給へといふ、老夫これを疑ふて衣裳む渡さゞれば天女のいふ凡天人の心は信を以て本とす豈君を欺かんや、老夫の云疑多して信なきは率士の常なり是以て衣裳を還さず実に欺事なくんば遣すへしとて則衣裳を渡し遂に携へて家に帰り留る事十餘歳、天女よく酒を醸る僅に一盃飲めば万病悉く除く其酒の樽を車に積みてこれを送るよつて其家豊に土形富めり故に其里を土形の里といふ、後に老夫のり心変り汝は我子にあらす早く去るべしといふ、於是天女天を仰きて怨慕して曰我私意を以て来るにあるず、然るに我に去れといふ、今我如何すべけんやと遂に歌を作りて曰く、
天の原ふりさけ見れは霞たつ 家路まとひて行衛しらすも
風土記及丹後旧事記によれば、
比治の嶺に池ありその名を真名井という。此の池に天女八人降り来りて水を浴す。時に夫婦有り、和奈佐老父和奈佐老母と云ふ。此の池に至ってひそかに一人の衣裳をかくす。則ち衣裳ある天女は飛び去り衣裳なき天女一人水に身を隠し愧を抱きける。茲に於て老父天女に曰く、我に子なし汝を請じて子となさん。天女曰く、妾独り衣掌を失ひ今天に登る事を得ず。当に君が言に従ふべし(中略)。遂に携へて家に帰り相住む事十余年、天女よく酒を醸し僅に一杯飲めば万病悉く除く。醸酒を価に替へて富貴になりしを以て枡富の里と云ふ(中郡鱒留)。後老父の心変り汝我が子にあらず、はやく出去るべし。茲に於て娘天を仰ぎ地にかなしんで曰く、妾私意を以て来たるにあらず、然るに今我に去れと云ふ。妾如何にすべけんや。老父益々怒って早く去るべしと云ふ。天女嗟嘆して天を仰ぎ歌って曰く
天の原ふりさけ見れば霞立つ
家路迷どひて 行方しらずも
斯く歌って遂に家を去る。既にして一村に至り村人に謂って曰く、老父婦の心を思へば荒汐に異なることなしと。故に此の里を荒汐の里と云(今の荒山)。荒汐より更に一村に至り、槻木によって哭く。故に此村を哭木という(今の内記)。哭木村より又一村に至り更に哭く。婦哭くを以て婦哭の里と云う(今の船木)。茲に至って我心をなくし(平然となったの意)(奈具の地名に通ずる)と静かに住み、終に此処に於て身を終る。是所謂豊宇気能売の命なり。
とある。そこで真名井に天降りした天女の一人則ち豊宇気能売の命は婦哭の庄奈具村において死なれたので、此の地に奈具大明神と奉祀したようである。
歴史・由緒等
この神社の創建年代等については不詳であるが、平安時代に制定された延喜式にも記載された式内社で、伊勢神宮の外宮の主祭神豊受姫大神はこの神社の分霊を祀ったものとされ、「元伊勢」とも称される。
比沼麻奈為神社のある京丹後市峰山町には、豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の月の輪田、籾種をつけた清水戸(せいすいど)がある。
宮津の籠(この)神社、大江町の「皇大神社(内宮)、豊受大神社(外宮)、天の岩戸神社そして、この「比沼麻奈為神社」、藤社神社の三か所が”元伊勢”を名乗っている。与謝野町(加悦)岩屋にも旧吉佐宮の伝承がある。(推定:式内 宇豆貴神社 京都府与謝郡与謝野町与謝)
伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)では、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされている。即ち、元々は丹波の神ということになる。
古蹟 久次(ひさつぎ)
太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術をはじめられた尊い土地であるゆえ、久次比(苛霊)の里と呼ばれていたが、延喜年間、民部令により「比」の一字を削除して、久次の里(くしの里)となり、後世訓読して”ひさつぎ〃と呼ばれる様になったのは、徳川時代の事と言います。
久次嶽(真名井岳)
清水戸(稲種漬井)
豊受大神が稲作りをせられる時、始めて稲種を浸された霊井で、常に少し白濁しており旱魃にも涸れる事が無いと言われています。
月輪田(三ケ月田)
境内・社叢
本殿及び拝殿は、大正11年に多額の寄付によって再建された。 本殿
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